志村けんさんは、誰からも愛される稀代のコメディアンでした。
彼は多くの日本人を爆笑の渦に巻き込んできましたが、そのテレビで見せる顔とは対照的に、実生活では非常にシャイで優しい人だったと言われています。
志村さんに心を救われた人物たちのエピソードを紹介することで、彼の魅力や人柄について改めて考えてみましょう。
このように、彼の真の姿に触れることで、彼のファンでなくても、彼に対する深い敬意と感謝の念を持つことができます。
それでは早速志村けんさんが救ったと言うスターたちとのエピソードを紹介していきましょう。今となってはそんな事が有ったとは思えないほどの有名人たちです。
それでは見ていきましょう。
2004年のM1グランプリ決勝に進出した、そして「欧米か!」というツッコミフレーズがきっかけでブレイクした、タカアンドトシさんです。
当初は正統派のしゃべくり漫才だった2人ですが、徐々に彼ら独自のスタイルが確立しました。
タカさんの頭を叩きながらトシさんが突っ込むスタイルは、2007年に行われたドリームマッチで見せた、ダウンタウン松本さんとトシさんの変化系「欧米か!」漫才が、ドリームマッチ史上最高と絶賛されるほどの大成功を収めました。
しかし、芸能界では飽きられるのが早く、彼らも「欧米か!」のツッコミだけで生き残っていけるのかと不安な思いを抱えていました。
そんな中、ある日、二人は心境を打ち明けるために志村さんに相談しました。 志村さんは大切なことを教えてくれました。
「1個でいいんだよ、それを大切にしろよ。俺だって変なおじさんとバカ殿だよ。それを大切にしてやってるんだよ。ずっとやることが大事なんだよ」と。
これにより、二人は自信を取り戻すことができました。 タカさんとトシさんは、志村さんに深い感謝の気持ちを持っていました。
志村さんが亡くなった際、トシさんは涙を流し、園長から褒められたことを語りました。
「とにかく褒めてくださって、お前ら面白いよなとかずっと褒めていただいて、まだまだ褒めていただきたかったんですけど。これからは天国から褒めていただけるように、やっていきたいと思います」と。
また、タカさんも、園長と出会えたことに感謝し、「今まで自信持って二人でやれてこれたなと思うし、本当にこうやって一緒にやらせてもらえたことが財産です」と語りました。
次に紹介するのは、志村動物園で共演していた嵐の相葉雅紀さんです。
2004年のレギュラー放送開始から、相葉さんは番組に1パネラーとして参加し、その後、総合司会補佐を経て、志村さんが亡くなった後には2代目総合司会を務めました。
しかし、番組開始当初は嵐自体も活動休止前の国民的アイドルの立ち位置ではなく、相葉さんのコメントも数秒しか使われず、現在ほどのバラエティでの活躍は見られませんでした。
番組スタッフからもう少し話してほしいと言われた中、相葉さんは志村さんに「思い切って自分が納得できることを自分なりにやってみなさい」と言われ、自らロケに志願し、自身の初めての番組コーナー「訳あり動物園修行」につながりました。
慣れないロケに不安があった相葉さんは、志村さんに食事に誘われ、麻布十番で待ち合わせすることになりました。
しかし、相葉さんが遅刻してしまい、謝罪すると志村さんは一言、「大丈夫、今来たところ」と返しました。
その後、台本を見せると、「相葉くんはこれで納得してるの?もっとこうした方が良くなるんじゃないのかって自分の中で思ってるのなら、ディレクターに言いなさい。さらに言ったのなら責任を持ちなさい。絶対、ディレクターのせいにしちゃダメだよ」と伝え、ロケのいろはを1から伝授しました。
相葉さんは、嵐の中では比較的目立つ方ではなかったため、他のメンバーがドラマや舞台など個々の仕事をこなす中、自分だけ仕事量が少ないことに悩んでおり、そのことを志村さんに相談しました。
志村さんは、「焦るんじゃないよ。相葉くんには志村動物園があるでしょう。ドラマは3ヶ月で終わるけど、志村動物園はずっと続くからね。僕が続かせるからね」と言い、相葉さんを勇気づけました。
番組開始当初には、志村さんの計らいで出演者やスタッフとの食事会が開かれた際に、仕事の疲れと緊張があった相葉さんは、お酒が入って志村さんの膝を枕にして寝てしまったことがあります。
スタッフが相葉さんを起こそうとすると、志村さんは「嵐もやって疲れてるんだからいいよ。男に膝を貸すのは初めてだよ」と笑って許したそうです。
次に紹介するのは、箸の持ち方が絶望的として水曜日のダウンタウンでもネタにされることがある、クワマンこと桑野信義さんです。
現在の10代の方には「水曜日のダウンタウン」でたまに出る、お箸が持てないおじさんというイメージがあるかもしれませんが、元々はミュージシャンとして鈴木雅之さんに誘われ、シャネルズに加入後にグループ名をラッツ&スターに改名し、最近では「め組の人」という曲がTikTokでも話題になりました。
その後、ラッツ&スターが一旦活動を休止し、それぞれが得意とする分野や好きなジャンルの仕事をしていこう、タイミングが合えば再び音楽活動をすることにしようと決めました。
鈴木さんはソロで音楽活動し、クワマンさんはバラエティに進むこととなりました。 クワマンさんは、元々ドリフの「全員集合」にも出演したことがあったのですが、休止後に初めてできたレギュラー番組が、「夕やけニャンニャン」と「志村けんの大丈夫だぁ」という人気番組でした。
特に、「大丈夫だぁ」では、憧れの人である志村さんの番組だったこともあり、毎回緊張をしていたそうです。
ある時、スリッパで志村さんの頭をひっぱたくコントがあり、憧れの人を叩くことに躊躇していると、志村さんから「だめだ、思いっきりこいでないとリアクションが取りにくいよ。俺を殺すことになる」とアドバイスをもらいました。
1986年にスタートした「志村けんのバカ殿様」では、最初はそば用人の一人だったのですが、1988年に家老役の東八郎さんが亡くなると、その代役に大抜擢されました。
しかし、東さんの後釜ということで、極度のプレッシャーを感じ、日々うまくいかない状況に陥り、「俺自信ないんですよ」と志村さんに話すと、志村さんは不満の様子を察し、「100%力を出そうと思わなくていいよ。
80%でいいの。残りの20%は、万が一の不測の事態に備えて取っておくんだよ」と言いました。 クワマンさんが驚いて「130%出すつもりで頑張って、本番の時に100%出せればいいんじゃないんですか」と問い返すと、「それじゃ余裕がないでしょう。肩の力は抜いた方がいい」とアドバイスを受け、肩の荷がおり気持ちが楽になったと語っています。
次に紹介するのは、長年生放送でMCを務めるタレントの中山秀征さんです。
第二の吉川晃司オーディションに合格し、俳優や歌手として活動していましたが、当時はMCをやりたいなんて思っておらず、事務所の方針からリポーターやお笑いセクションに入ることになり、石塚さんや脚本家の三谷幸喜さんとも同期になりました。
中山さんは、その長いタレント生活で最も影響を受けた人物の一人として、志村さんを挙げています。
20年もの間、志村さんの誕生日会幹事を務めるなど、親交の深かった二人です。初めての出会いは、今から約30年ほど前のバラエティ番組で、中山さんが出演していたときに志村さんがゲスト出演したときです。 中山さんは、志村さんからたくさんのアドバイスをもらったといいます。
ある時には、「(経験を積んで)わかってくると、今後は上から(目線)になっていくんだよな。これ、気をつけろよ。いつまでもなヒデ、バカでいろよ」と言われ、中山さんは専門家に聞いた方がいいと思い、かっこいいMCをやることにこだわらないスタイルを確立しました。
ただ、志村さんから「専門家がいるんだから、専門家に聞いた方がいいよね。それをやっぱりかっこいいMCをやると言いたくなるんだよ。だから、俺それはやらないね」とアドバイスを受けたことが、中山さんが自身のMCのスタイルを決定付けた要因になったと語っています。
杉良太郎さんは、役者と芸人のフィールドが違いましたが、志村さんが「全員集合」で世間を賑わせた頃、杉さんは「遠山の金さん」の主演を務めるなど、同時期に芸界を牽引した2人でした。
杉さんは親しみを込めて「けんちゃん」と呼び合う仲でした。
杉さんは麻布十番の行きつけの店で、志村さんと顔を合わせると、駆け出し時代にカレー屋で修行していた杉さんが作ったカレーを振る舞ったり、プロデュースする焼き芋焼酎「鹿児島大地」を志村さんが愛飲するなど、親交を深めていました。
志村さんが亡くなった際、杉さんは東村山市にある実家を弔問し、志村さんを称賛しました。「余人に代えがたい人。あれだけ芸で人を笑わせた人はいない。自分流のコントを仕上げて、志村流を作った」と振り返りました。
そして、「人の悪口やなんやかんやで人気を得ようとしなかった。立派だと思う。悪口を聞いたことがない真面目で優しい人だった」と語りました。
共演はありませんでしたが、同じ時代を作ってきた志村さんに対する杉さんの尊敬と感謝の気持ちが伝わってきますね。
最後に、芸能界以外から志村けんさんの凄さを紹介します。
志村さんの人気は、日本だけでなく台湾でも凄まじく、台湾でも40代以降の方であれば「変なおじさん」や「アイ〜ン」といったフレーズを知っている人も珍しくありません。
まさに、笑いは国境を越えることを体現した人物でした。志村さんが亡くなった際、台湾のメディアは志村さんを喜劇王と呼び、訃報を伝えました。
さらに、当時の台湾の総統がSNSで日本語による追悼を行ったことも異例の事態でした。 志村けんさんがどれほど偉大だったかを物語る象徴的なエピソードがあります。
志村さんの訃報をメディアが伝えた際、手話ニュースで彼を表現するときに「アイ〜ン」を用いたことです。これは標準的な手話ではなく、特定の人物を指す際に使用される「サインネーム」という手話のあだ名のようなものです。
他にも加藤茶を「カトちゃん」、たけしを「コマネチ」と表すこともありますが、どれほど幅広い世代に知られた人物かが表されています。
実際、「全員集合」や「バカ殿様」など志村さんの出演するお笑い番組は、言語の壁を超えるだけでなく、耳の不自由な人にとっても楽しめる内容で、本当に幅広く愛されていたことが伝わってきます。
今回のエピソードを通じて、芸能界という群雄割拠の中に長年生き抜くことには、それなりの理由があると感じさせてくれるものばかりでした。
志村さんは、コントで爆笑させてくれたかと思えば、三味線を始めると大人の色気が漂う男に変身し、我々を魅了し続けました。
志村さんは、多才なエンターテイナーであると同時に、彼の持つ個性的な魅力によって多くの人々を引き付けました。
芸能界という業界で成功し続けることは簡単ではありませんが、志村さんのように、人々を笑わせる才能や人格者としての魅力を併せ持ち、多くの人の支持を集めることができたのは、彼ならではの魅力であったことが分かります。
彼の遺産は、数多くの人々に愛されることなくしては語れないものであり、多くのファンにとって彼が残した多彩なエピソードは、永遠に忘れられないものとなるでしょう。